本格的に寒くなり始める頃、高倉健さんと菅原文太さん-昭和の名優が相次いで逝ったのを知った。
そもそも映画を、そして邦画はより観なかったタチ。加えて男っぽい役者さん達で、代表作もだから相方が車でDVDを観るのをチラリ眺めたくらいで、本当に縁がない。書くのをぐずぐずしていてまた鮮度が落ちた、と言っては失礼だが、最近になり相方が『仁義なき戦い』を借りて観ていられるということは、熱狂やショックは少し落ち着いたのだろうか。
訃報の直後「あ〜昭和は遠くなっちゃったな」としみじみしてふと、浮かぶものがあった。これが自分の昭和なのだろう。小さな小さな昭和。
子どものころの風景
子どもの頃、家によく遊びに来ていた保険の勧誘のおばちゃん。おばちゃんと言っても祖母の古い知り合いで、子どもの目にはお婆さんに近かったが、昔は大層美人だったろう容姿だった。うちの火鉢にあたっていた横顔を思い出すと中高で端正で、睫毛もふっさりしていた。
長じて、母と昔話をしていてそれを伝えたら、「ああ、ナントカちゃん(おばちゃんのこと)は、芸者さんの子やけん、綺麗やったわ。飲み屋さんようなのやってた時もあったかな。生保は歳いってから」とさらり言った。昭和の後期、さすがに芸者さんが闊歩するのを見たことはなかった。
芸者さんは見たことはなかったが
近所の大好きだったお婆ちゃんちの敷地内に、今思えば茶室みたいな離れがあって、そこには三味線の師匠(「おっしょさん」と呼んでいた)が住んでいた。洋装-この言い方がしっくりくる-もあったが、着物姿の彼女は、これまた子ども心にもかっこよかった。地味な縞が多かった。
小さなその住まいに、調度品らしきものはなく、風呂もなかった。風呂は、母屋?のお婆ちゃんちでよばれるか、銭湯だったのではないか。そもそも、あんなに遊びに行ったのに、母屋に風呂があったか記憶があやふやだ。
自宅の風呂が壊れて銭湯に行った際、師匠はいて、痩せぎすの躰に張り付いた萎んだ逆三角形の乳房にびっくりしたのは覚えているのだ。水木しげるの世界のようだった。ちなみに自分の祖母は「最古のビーナス」的豊かな体躯だった。だから絵に描いたような老婆のそれは、初めてだった。
私の「昭和」は祖母だった
自分の人生、実はもう平成の方が長くて、この昭和の風景を浮かべると、鼻の奥がつんとしてきた。昭和かぁ…どんな時代だっけ?今よりいいとか悪いとか言えないけれども、その中心を彩っていたのは平成に入り数年で亡くなった祖母だった。
大学の卒業式の日、祖母が亡くなって「自分は彼女のいない世界を生きるのだな」と思った。順番からいうと当たり前なのだが、今年ごく若い親しい者に先に逝かれてしまった。そんなことも知る歳になったのにびっくりしている。
via PressSync